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棄景・・・弁天埠頭 [お散歩写真]

今日は、少し趣向を変えて船舶ネタをひとつ。

現在のレポートなのだが、なぜか昔の出来事のような気がしてならないのだ・・・

 

JR大阪環状線の弁天町駅北へ徒歩15分のところに弁天埠頭という客船ターミナルがある

・・・いや、あった

 

昭和の終わりまで、四国・九州への船旅の一大出発ターミナルだった。

四国・高松にはここから船便で行くか、岡山・宇野まで鉄道で行って、その後は宇高連絡線で瀬戸内海を渡るしかなかった。

おかげで、その当時終日往来客絶えず、ターミナルの灯りは煌々と光を発し、殷賑を極めていた。

バスやタクシーが頻繁に行き来し、「白タクご用心」などの立看板もあった。

新婚旅行のカップルを乗せて、くれない丸・まや丸が別府航路を行き来していたことが懐かしい。

高松航路の加藤汽船は少し小さめの「ぐれいす」「はぴねす」だった。

 

どこの小学生だろうか・・・団体で乗り込むぞ(昭和46年)

最後尾のデッキでなんだか楽しそうだね。

 

手許にある昭和53年の時刻表を見ると一日一便加藤汽船も運航している

時間はかかるが、大阪~高松が1500円とは、当時でも破格のメチャ安である → だから存在価値があった → しかし会社がやっていけなくなった → 倒 産▼

でもこのめちゃくちゃな到着時刻は何だ。特に高松到着の4時50分!!

到着後朝までは船内で寝ていてよかったらしいが・・・。

 

 

関西汽船の別府航路もまだまだ健在だ。

2等・特2・1等と運賃が2倍3倍になっている・・・昔の鉄道省の3等・2等・1等と同じじゃないか。

新婚さんは、無理しても特等の個室を予約とって、二人だけの世界を楽しんでもらわなくっちゃ・・・

別府到着まで15時間もあるんだから・・・

1等と特等は、船内フロアーも一般客と区別してあり、静かにゴージャスな船旅が楽しめた。

また、パーサーによって、ベッドの上に毛布で鶴と亀がこしらえてあったりして、好かったね。

ああ・・風情があったなあ。

 

 

しかし、昭和の終焉とともに天保山や南港にその地位を譲った後は、ターミナルとしての機能を失ってしまった。しばらくは建物内の店舗も細々と経営していたが・・・

現在では関西汽船の事務所(案内所)が残されているだけで、

すべての店舗は閉鎖されていて、

一部貸事務所として使われているのみとなっている。

(二階の扉部分は、いわゆるトマソン物件「高所ドア」だな。)

 

 1階入り口から内部をみると・・・暗~い

 

いまでは、桟橋部分も閉鎖されて立ち入り禁止。

 

加藤汽船のターミナル入口を見てみよう。

入口は・・・もう何年も開かれたことがないようだ。

芸術的なホコリのつき具合だ。ヘンな落書きすらない所を見ると、ほんとに人がやって来ないんだ。

 

このシャンデリアも再びその輝きを取り戻すことはないのだろうか・・・

 

桟橋側の通路も駐車場と化している。

船体にお日様マークをつけたサンフラワーも昔はここに着岸してましたよ。  

そんなターミナルの玄関の脇に、一枚の茶色に変色した市内案内地図が残っている。

ほとんど何が書かれているか分からなくなっている。

置かれているのか?それとも捨てられているのか?・・・それさえも定かでない。 

右側に「大阪」の文字がかすかに残っているので、大阪の案内板だったんだろうね。

また隣のトイの朽ち加減が、実にいい対比を見せているね。

 

こんなもの隅々まで凝視する奴のほうがおかしいかもしれないが、よくみると万博の箇所があとから塗りつぶされている。それも思いっきりヘタクソに・・・。

 

以前のブログで載せた大阪万博の鉄道地図と同一のものがそこにあった。

阪神北大阪線も描かれているよ。これは、天六から野田阪神までの路面電車だ。

金魚鉢といわれた名車が活躍していたなあ・・・・。

 

ということは、この案内地図板、38年前からここに鎮座していることになる。

ひえっ。

南海・汐見橋駅の鉄道地図ほどではないにしても、これだけの期間風雨にさらされていながらいまだにその存在をアピールし続けている様は、凄まじい。

見習わなくては・・・。

 

鳥瞰図・・・

この安治川の向こう岸、いわゆる右岸(写真の左上)、には今やUSJが開設され、毎日遠来から多くの観光客を受け入れているが、左岸のココには誰もやって来ない。

いわゆる昭和とともに取り残された棄景である。

 

書いていると段々悲しくなってきたので、

最後に・・・

このターミナルが華やかなりし頃の夜景を載せてレポート終わり。

 

弁天埠頭


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manamana

何時までもこのままとは思えません。
そのうちに、大資本が再開発とかするのでしょうか。
by manamana (2008-02-05 07:30) 

サットン

なんと!懐かしい!!

ほとんど記憶から消えかけていました。
でも、私の船旅の1ページ目はここから始まったのでした。関西汽船「ひかり丸」、洲本への航路でした。桟橋にはずらりと関汽の船が並び大阪港を出たところで同じ関汽の別府航路の船に抜かれたことを思い出します。

最後は華の別府航路。中古船ながら素晴らしいフォルムの「くいーんふらわあ2」。九州ワイド周遊券の復路を放棄して利用しました。「白タクの誘いにのると”ひどい目”に遭います」というストレートな看板に笑ってしまいました。

知らないうちになんとなく使われなくなりましたね。
by サットン (2008-02-05 09:57) 

あのサンフラワーは、ここに来ていたのか。小さい頃、よくテレビでCMが流れていたっけ。。乗客を奪われた末に残った建物が、あまりに寂しい。
そういえば、この間乗った宮島航路も"鉄道連絡船"なんですよね。宮島には鉄道が無いのに、不思議だ。
by (2008-02-05 12:59) 

む〜さん

残っている事だけでも、凄いことですね。ここまで来ると、まさに『遺跡』。年月流れた近い未来、USJだって、TDLだって、如何なっているか判りません。
by む〜さん (2008-02-06 15:51) 

Fuzzy

>manamaさん。暖かい言葉ありがとうございます。
 バブル期には、南側の内港を埋め立てて外国人の居住地を造る。という計画もありましたが、赤字転落行政の上に、本日厳しい知事がご就任になりましたので、ずっとこのままのような気がします。

>サットンさん。思い出していただいただけでOKです。
 淡路航路や華やかな別府航路・・・ほんと「憧れのハワイ航路」の時代でしたよね。

>うたにさん。宮島航路はJRが運営している数少ない航路です。
 切符も普通にどの駅でも買えるのがいいですね。
 倉敷の旅行記楽しみです。

>む~さん。十年一昔といいますが、最近はそれよりずっと速いです。
 USJ・TDLなんてほんとこの先どうなるか分かりませんね。
 その前に拙者自身がどうなっているのやら・・・(笑)
by Fuzzy (2008-02-06 23:33) 

なにわ

中突提から弁天埠頭まで小学校の遠足で乗ったことがありました。別府航路がまだフェリーではなかった時代です。

その賑わった天保山の船着場も明石海峡大橋の開通で、瀬戸大橋は高いといっていたドライバーが、淡路は近畿、徳島もその続きとばかりに高松、高知でさえ、明石海峡大橋~大鳴門橋経由になってしまいました。
というわけで、トラックに便利と移動した南港のフェリーターミナルもひっそりとしています。

ところでこの写真、小学生ファジーさんとその同級生でしょう。
by なにわ (2008-02-07 19:27) 

Fuzzy

>なにわさん。おはようございます。
 最近はどこにでも橋やトンネルが敷設されているので、旅客の船便は凋落の一途ですね。おまけに重油は高くなるし・・・。風情がなくなりました。
 後段の件、貴見のとおりです。
by Fuzzy (2008-02-08 07:19) 

ふとっちょ

ファジーさん、初めまして、お邪魔いたします。
弁天埠頭で検索していたらたどりつきました。
私もついこないだ弁天埠頭を探索してきたところで興味深く拝見させていただきました。上空から写真を撮られてるのがすごくわかりやすく思いました。昔の時刻表の写真もなるほどなるほどと思いました。

面白いところを旅されているようで、ゆっくり見させていただきますね。
by ふとっちょ (2008-02-12 23:40) 

Fuzzy

>ふとっちょさん。おはようございます。
 コメントありがとうございます。
 今ではさびしい弁天埠頭ですが、華やかなりし頃を偲ぶヨスガとなれば幸いです。
いいかげんなことばかり掲載していますが、オキラクにお立ち寄りください。
by Fuzzy (2008-02-13 07:20) 

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